tatsuです。久しぶりの投稿になります。
先日、10ヶ月間続けていた臨床実習を終えました。この期間中、僕は依存症について精神科医や心理士の先生方、精神保健福祉士や看護師の方々、そしてたくさんのクライアントさんたちから学ばせてもらいました。
アルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症、ゲーム依存症、窃盗症、摂食障害、発達障害、そして当事者の親の方々に関わることができ、彼らの通ってきた人生の話をたくさん聞かせていただきました。
僕の勉強に協力してくださったすべての方々に感謝しています。こんな経験は二度とできないと思っています。今は感謝の気持ちでいっぱいです。
アルコール依存症やギャンブル依存症など、依存症には種類がたくさんありますがどれもメカニズムは同じように感じます。
僕は実習で依存は「嫌な気持ちにベールをかけるための対処法」であると学びました。
なぜ人はアルコールや薬物、ギャンブル、あるいは人に依存するのでしょうか・・・。依存してしまうのは自分の中にある「嫌な気持ち」を見たくないから。「嫌な気持ち」というのは、例えば、「愚痴や文句を言えない」といった気持ちです。
愚痴や文句を言ってはいけない・・・こんな風に考える自分はいけない。
こんな風に思うと自己嫌悪になったり、自責感を感じたりするようになり、どんどん孤独になっていきます。
僕なんてこの家族にいなくていい。僕なんて必要ない。僕なんて消えてしまった方がいい・・・。こんな風に思っている人は日本にどれくらいいるでしょう。こういう気持ちにベールをかけるためにさらに依存していきます。
依存症に限らず、心の病は孤独になっていきます。そして孤独は病状を悪化させます。
自分の心を守るために依存しているのです。だから依存は「対処法」と考えることができるのです。
本当は愛されたい・・・ただそれだけだと思うんですよね。
誰かに愛されていれば依存症にならないと思います。
愛とは何でしょうか?
僕は実習中、「愛が分からない。愛を教えてください。」という質問を受けました。とても難しい質問でした。
みなさんならどうやって答えますか?
僕は「愛とはその人に何も求めないこと」と答えました。ありのままのその人を認めてあげること。その人の主体性を尊重すること。こういった価値観が日本の社会に欠けていると僕は強く思います。
自由に何かをやろうとすると「それはわがままだ」と言われてしまう日本社会に僕は疑問を感じています。
みんな我慢しているから自由な人を見るとわがままだという風になってしまう。
もっと愚痴っていい。もっと文句を言っていい。自分をもっと表現していいんです。
主体性を認めてもらえないと、自分のことが嫌いになっていきます。本当の自分で活動すると否定されるのだから、自分はダメな人間、いてはいけない人間と思ってしまうのも無理もないと思います。
日本人は自己肯定感が低い傾向にあるとどこかで聞いたことがあります。
自己肯定感は「成功体験」と「失敗して立ち直った経験」によって高まると学びました。
日本では主体性が尊重されず、失敗しないように行動する人が圧倒的に多いように思います。失敗すると責められる、失敗したら人生が終わる・・・。失敗しないように安全な道しか歩まないし、親も失敗させないように子供をコントロールしているようにも見えます。
これでは自分を好きになることなんてできないと思います。
最近、8050問題(80代の親が50代の子を支える、ひきこもりの問題)が話題になっていますが、同じことが言えると思います。愛されてこなかったために、ひきこもるしかなかった・・・。ひきこもりも対処法と考えることができます。これ以上外にいると自分の心が壊れてしまう。ひきこもるのは自分を守るための対処法なのだと思います。
ひきこもりも本当はただ愛されたい・・・。それだけだと思うんです。
自分という存在を認めて欲しかった。自分の気持ちをもっと聞いて共感してもらいたかった。自分の主体性を尊重してもらいたかった。それだけだと思うんです。
何が問題なのでしょう。
親の世代も主体性は尊重されてこなかったと思います。愛されてこなかった人たちが自分の子供を愛するのはとても難しいと思います。
ひきこもりになってしまうのは親が悪い・・・というのは僕は間違いだと思っています。
問題は主体性を認めない日本の文化や社会にあると僕は思います。
国が変わらないといけません。
国が変わるためには、まずはこの文化的な問題を認識する必要があります。
愛のない文化・社会は病気を生み続けます。
最後に、実習の最終日にある人に卵アートをもらいました。
そのアートに「愛されるべし」と書いてありました。
僕の最後の実習にふさわしい言葉だなぁと思いました。
みんな、愛されるべし。
tatsu